「ナイフ文化を」を語る時、メイカーとして「BUCK」「GERBER」が登場するのは当然だが、「BENCHMARK」を除外する事はできない。 2001、10月の米軍による「アフガン戦争」が開始されるが、これを遡る1989年にアフガンからのソビエト軍撤退とソ連邦崩壊の中で〔TACTICAL KNIFE〕なる物が登場し、〔TAC系〕なる単語が一人立ちし、1990年代後半には、マスコミの記事の影響もあって〔TAC系ナイフ〕全盛期が有り、当店もそれにくみした汚点があり、未だに悔しく、忸怩(じくじ)たるものがあります。 ナイフ歴10年前後の短いインターバルの人は、「BENCH MARK」と「BENCH MADE」の区別ができない人も多いでしょう。さて本題、“ベンチマーク”を語る時には、二人の偉大なる先人を紹介しなければならないでしょう。一人はブラッキーコリンズ氏。彼は12才の頃からナイフを自らデザインし、製作をはじめた。1960年代4種類のカスタムナイフを作る小さなナイフ工場“ベンチマーク”を彼は経営していた。そこにもう一人の重要な人物当時70年以上の歴史を誇る医療機器メイカー“ジェンキンズ社”の社長R.B.ジェンキンズ氏がいた。氏は自社の多角化にナイフ製作を参入させる企画を立て、既存のファクトリー(量産)メイカーとは全く異なった「ファクトリーカスタムメイカー」を探していた。そして二人は意気投合しジェンキンズ氏はなんと、1970年代初期に自らベンチマーク社の社長に就任した。氏の豊富な資金と世界一のナイフデザイナーであり、すぐれたメイカーであったブラッキーコリンズ氏の結びつきは、ベンチマーク社に、数々のデザイン(ハンドル含む)、ロックシステムの開発を生み、カスタムナイフの発想と思想を持った、SOSナイフをはじめとする「量産カスタムナイフ」を世界へ送り出した。ブラッキーコリンズ氏は単なる、職人、デザイナーにとどまらず「ナイフ文化」をアメリカに根付かせるため〔アメリカン ナイフメイカーズギルド〕を創始した。又、専門誌〔アメリカン ブレイド マガジン〕を1973年に創刊した。いくつかの本も執筆している。因にクリークは1975年創業(ベトナム戦争敗退)です。 ナイフ界のスーパースターのブラッキーコリンズ氏のすぐれたナイフでザインは世界中の多数のメイカーにコピーされた。 このコピーに対抗できるのは“アラモ”で有名なジム ボウイのみだと伝えられる。彼の良きパートナーのR.B.ジェンキンズ氏との純粋な結びつきと発想を思う時、「ナイフ文化」の一翼をになうショップとして、経済の“失われた10年(15年)”は別として、責任を感じます。「ベンチマーク」のメイカー説明が、いろんなところへ行ったようですが、絶対に知っておいてほしい。「TACナイフ」の登場により“ショップを鍛えるお客が減った”様に思います。〈もっともっと、売場で私に話して下さい〉日本の「ナイフ文化」の危機です。 代表 大西 忠 2007.1.26 |
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